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南トルコ・アンタルヤの12ヶ月*** 地中海は今日も青し

南トルコ・アンタルヤの12ヶ月*** 地中海は今日も青し

(3)イェセメック野外博物館


【3】イェセメック野外博物館

                   イェセメック野外博物館遠望山の神
                       イェセメック野外博物館遠望  
      

     アダナ~ガズィ・アンテプ間を結ぶ国道を、アンテプの手前65km地点ヌルダー(Nurdagi)で南に折れる。
     イスラーヒイェ(Islahiye)から南東に折れ、23km地点。
      (開館:毎日、日の出~日没、有料)
     途中、ヌルダーの南東15kmには、新ヒッタイトの都市国家のひとつサム・アル(Sam'al)の首都であった
     ズィンジルリ(Zincirli)がある。
     イスラーヒイェから10km地点にはティルメン・ホユック(Tilmen Hoyuk)があり、BC1700年代のものと見なされる
     宮殿の遺構が発見されている。


  ―アナトリアにおける最古の石切り場のひとつ。ここはBC13世紀からBC8世紀後半にかけて、彫刻工房
  のあった場所である。
  300体以上もの彫刻や石碑がなだらかな斜面のあちこちに点在している。
  野生動物、スフィンクス、山の神、想像上の生物、戦車といった主題が、完成への途中段階にある。
  それらは、彫刻家や石工がまるでそこに置き去りにしたかのような姿で、丘の斜面に横たわっている。
  イェセメックで制作された彫刻は、ズィンジルリとシリアでも見つかっている。
                                     (BLUE GUIDE TURKEY 第3版、P520より)  

  ―紀元前1375年頃、この斜面はヒッタイトの石切り場兼彫刻学校だった。
  600年以上もの間、1.5~8トンもの重さがある玄武岩のブロックが大量に切り出され、ライオンや
  スフィンクスなどの彫像が作られた。
  これらの作品がヒッタイト時代の末期から、さまざまな製作過程のまま、ここに放置されているのだ。
                                     (ロンリープラネット日本語版、P641より)

  ―歴史資料によれば、この地はヒッタイト皇帝シュッピルリウマ1世(BC1375-1335)によって開かれた
  もので、地元民フルリ人によって運営されていた。
  (中略)アナトリア南東部は封建的諸王国によって統治されていた。この時代は、後期ヒッタイト時代として
  知られている。
  これらの王国のひとつが、BC9世紀におけるサム・アル(Sam'al)/ズィンジルリ(Zincirli)で、イェセメック地方を支配
  していた。BC9世紀の最初の25年間に、彫刻制作と石切りが開始された。
  この時期に成された彫刻や作品には、アッシリア、ヒッタイト、シリアの影響が見出せる。アラム人も同様に
  痕跡を残している。(中略)
  サム・アル王国は、BC8世紀の最後の25年間にアッシリアに征服され、仕事を失った人たちによって
  彫刻制作も石切り作業も放棄され、この地はそのまま置き去りにされた。  
                                         (ガズイ・アンテプ観光局資料より)

戦車山の神3



* * * * * * * * *


ガズィ・アンテプまでの道。峠を下りる時、車窓に広がる風景に息を呑む。
時は9月。小麦の収穫のシーズンが始まっていた。
黄金色に色付いた小麦畑。刈り入れが終わって焼かれ、茶色に変わった畑。そしてジャガイモやその他の野菜の葉の緑。
黄、茶、緑という3色のパッチワークが大地に延々と広がっていた。

ヌルダーからイェセメックまでの間。ふたつの珍しい光景に遭遇した。

畑作の行われていない、緩やかな丘陵地に、突如7~8台もの戦車の姿が出現したのだ。
考えてみれば、ここからシリア国境までは50kmもない。周りを小高い丘に囲まれたこの場所は、恰好の軍の演習場なのである。

畑の色はいつのまにか大きく変化していた。
赤茶けた大地の上に、ところどころ赤い絨毯が敷き詰められているかのよう。
車を停め、赤い絨毯の正体に近付いていった。
それは、強い太陽の元で乾かされつつある、真っ赤に色付いた唐辛子であった。
トルコ南東部、ガズイ・アンテプ、シャンル・ウルファ周辺は、甘みと旨みをそなえた美味い唐辛子の産地として有名である。料理にも、細かく砕いた唐辛子がふんだんに使われる。
あの、甘みと辛みと旨みの調和した唐辛子は、こんなところで作られているのだった。

唐辛子干しの風景唐辛子、とうがらし、クルムズ・ビベール唐辛子畑の少女


乾燥した台地に剥き出しになった岩々の色も、いつのまにか黒いものに変わっている。ああ、やはり同じ岩だ。
今まで見てきたヒッタイト時代のレリーフ、彫刻は、いずれも溶岩の冷え固まってできたような鈍色の岩に掘られていることが多かった。
長い年月を経て、岩石中の鉄分が錆びて朱色を帯びた部分もある、そんな岩である。

イェセメック野外博物館。
管理人の案内に従って、丘陵地のあちらこちらに点在する未完成の彫刻を見て回る。
大部分は、一対の山の神とライオンの像である。
2800年後の私たちの眼にも、いずれも素人の作品としか映らない素朴な作品ばかりだ。
彫刻学校であったという話が、すんなりと納得できる。
当時、何十人、何百人の石工と彫刻家見習いが、ここで大岩を相手に修行を積んでいたのだろう。
アッシリアに攻め込まれた時、彼らはいったいどこに消えてしまったのだろう。

南向きの暖かな斜面には、ヒッタイト帝国とこの工房の全盛期を思い出させるものは何も感じられない。
シリア国境に近い鄙びた村の雰囲気と、穏やかな日差しだけが、夏枯れた草原を満たしていた。





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